私の職業奉仕(鹿児島南RC・今村 正人)

所属クラブ:

氏名:今村 正人

大学を卒業して1年間の実地修錬の後、大学小児科学教室に入局、小児科医師としての道を歩き始める。先輩医師の指導の下、小児患者に必死に向き合い格闘した時代、朝早くから夜遅くまでの生活であった。与えられたこと、目の前の患児の診断・治療に緊張感は高まっていた。回復して退院していく患児がある一方で、残念な結果になる患児に肩を落とすことも稀ではなかった。今振り返ると「職業奉仕」を意識することなどなく、ただがむしゃらに日々を送っていた。傍ら、調査・研究のため離島に出かけたり、基礎医学教室に席を置き、学位論文にもとりかかった。大学生活6年目に離島の県立病院に出向、小児科開設第1号のたった一人の小児科医として診療に当たる。目の離せない入院患児を外来に移動させ、横目で見ながら外来診療に当たったりもした。院内たった一人の小児科医として心細さもあったが、他科の医師たちに支えてもらい1年間の任務を終えることができた。

任を終えて大学に戻ったが、医師として8年目となる年に重症心身障害児医療に携わることになる。国の方針として全国的に進められた医療分野で国立療養所がその担い手であった。病棟開設同日に着任し、9年半を多職種の職員と共に重度の障害児の健康管理、リハビリ、生活環境の調整、工夫をこらした親子・職員共々の運動会をはじめとするレクレーションに汗を流した。自宅から高速道路を使っての勤務だったが、当時の事、まだ電話の普及も十分でなく、夜間、電報で呼び出されることもあった。子どもたちは障害の程度により異なるが、精一杯の表情を見せて強い生命力で生き抜いていた。全国の研究班会議、時に厚労省に顔を出すこともあり、同じ立場の医師たちとの交流も思い出に残っている。管理職の立場になり、当時、活動が盛んであった労働組合との交渉の矢面に立たされたが、診療の場ではしっかりと信頼関係が保たれていたことは嬉しいことであった。医局の1泊忘年会が霧島のホテルであった時、宴たけなわの頃、病棟から児の病状悪化の知らせが入り、車を走らせて病棟に戻ると、かねてから栄養状態が良くなく活気に乏しい児が静かにゆっくりとあえぐような呼吸をしている。もう終わりかと思われ見守ったが、朝を迎える頃には呼吸状態は自然と少しずつ良くなり危機を脱した。生命力の強さに感動を覚えた。一人で飛び込んだ医療の場に精神科の医師に加えて後輩の小児科医師たちが加わり5人体制となった。また、職員にも恵まれ、子どもたちに関わる状況は向上していった。そんなある時、先輩小児科医師から開業の誘いを受けた。十分とはいえないが、やれることはやったというある種の達成感と後ろ髪を引かれる思いの中で、9年半の勤務医生活に別れを告げて開業医の道に踏み出した。44歳の時であった。

緊張して迎えた開業初日は、2月初めの雪がちらつく寒い日であった。4人の子どもたちが来院して無事終わった。来院児は少しずつ増え、早朝、夜間、休日の急患への対応等で気の抜けない日々が続くことになる。時間外の患児への対応には素人の家内が電話、受付、診療介助、後かたづけと頑張ってくれてありがたかった。開業まもなく、夜になると発作を起こし大学で診ている、いわば札付きの喘息患児を大学の依頼で一晩預かり、様子を見ることになった。その夜は運悪く、けいれん重積の幼児が飛び込んできた。市立病院に救急搬送、入院。帰院してみると落ち着いていた喘息児が発作を起こして呼吸困難になっていた。患児は苦しさのあまり「包丁を持ってきて、殺せ」と叫ぶありさま。深夜になって大学病院医師の応援も得、そうこうするうちに呼吸困難は多少軽くなったが、入院が必要な状態であり、早朝4時頃大学病院に救急搬送、入院となり、ほっと安堵した。救急車を追ってきた家内の車で病院をあとにした。道すがら少しずつ白々と明け始めた空を眺めながら、懸命に二人の重症患児のいのちの危機を救い得た安堵と満足感に浸った。忘れ得ぬ一夜となった。診療所に張り付いての日々だったが、開業8か月頃の夜、初めて寿司屋のカウンターでくつろいだ。そこでの初対面の先輩開業医ご夫妻との出会いは懐かしい思い出である。開業して3年がたった頃、高校同期で、当時鹿児島南ロータリークラブの幹事をしていた熱心なロータリアンに入会を勧められたのが縁で入会して今日に至っている。入会時に額入りの「四つのテスト」を頂いた。原文を知る由もなかったが共感を覚えたことを思い出す。開業4年余で診療所は現在地に移転したが、以後、受診児も増え、インフルエンザ流行時期などには多忙を極めた。納得、安心の得られる説明・声かけを心がけてはいたが、限られた時間の中でひとり一人に果たしてどれほどできたかと考えると心苦しいものがある。子どもたちは成長して青春期を経て、やがて社会人となり結婚する。授かった赤ちゃん、子どもを連れてき来て「私も子どもの時診てもらいました」とか、祖母が孫を連れて来て「この子の母親が子どもの時お世話になりました」とか声をかけられると、なんだかとても嬉しくなる。救急医療体制も次第に整備され医療機関が協力し合って当番を組み役割を果たしていくようになり、個々の医師が昼夜を問わず診療に無理をすることはだいぶ緩和されていった。大晦日に急病センターで翌朝7時までの診療を終え、迎えに来た家族と城山に上がり初日の出の眩しいばかりの太陽を拝んだ時の清々しい気持ちを思いだす。診療の傍ら医師会の仕事にも携わることになり、多忙な日々を過ごすこととなった。大学等に診療応援をお願いすることも稀ではなかった。医師会業務で出張の折など、ぎりぎりまで診療をしてスタンバイしている家内運転の車で飛行場に走り込むといったことも一度ならずあった。これまでに、特に30年余の開業時代に家内が果たしてくれた役割は大きく、心強く、ありがたかった。

以上、50年余にわたる医師たる職業人としての歩みの一端を思い出すままに記し「私の職業奉仕」としました。今にして思えば反省点も多々ありますが、多くの方々に支えられ、助けられて、なんとか職責を果たせたとすれば幸いです。ありがたいことです。