私の職業奉仕(串間RC・吉田 美代治)

所属クラブ:

氏名:吉田 美代治

 私は平成八年六月に串間ロータリークラブに38番目の会員として入会し、丁度二十年の節目の年を迎えたので、ロータリークラブに入会するようになった経緯と職業奉仕の現状を述べてみることにする。

私は昭和二十四年から平成元年三月迄四十年間小学校教員として特に障害児教育、言語障害児の指導に当たって来た関係で、退職後に知的障害者親の会「育成会」の支部長を務め、障害者の社会参加と自立を援助する努力をして来た。そして親達と相談して知的障害者の働き場として「通所にこにこ福祉作業所」を平成五年に開設した。

長年の障害児教育の中で、義務教育終了後の子供達の生活や就労などはどうなるのだろうかと心配していたからである。

作業所を開設して通所者の仕事を探すのに苦労している中で幸いに地元の企業、バッグ製造の下請作業を行うことが出来るようになり少額ではあるが給料を支給するまでになった。そして退職教員の仲間や串間ロータリークラブ会員、一般のボランティアの協力を得ながら、作業所独自の作業内容も次々に開拓し、通所者の給料アップに努力した。

作業所の実績が各方面で認められるようになり一九九六年第九回全国健康福祉祭のネンリンピック96宮崎ウォークラリー交流大会が都井岬で開催されるに当たって、参加記念品の製作を作業所が請負うことになった。

都井岬の岬馬と蘇鉄を象って杉板を切り抜き、焼き板にしたものに大会名のカードを取り付け、紐で吊り下げる壁掛けを九百個作り化粧箱に入れてモダンな記念品に仕上げた。

作業所員だけでは到底作り上げることの出来ない数量であったが、多くのボランティアの協力のお陰で、通所者も真剣な表情で作業して目的を達成したのであった。

これらの活動を常に見守り援助したのが串間ロータリークラブであった。

これに対して所長である私は常に感謝の念で一杯であった。

クラブの例会の席に招かれて卓話することになり、通所者が社会参加に向けて働く意欲が出て来た様子を語った。

この席で頂いた「ロータリー入門」という本を読んでいくうちに、奉仕の精神や活動の内容を知ることが出来て、私もこの仲間に加わって世の中の為になることをしてみたいと思うようになった。

入会してからは会報・雑誌委員会の活動を皮切りに、クラブの各委員会の委員長を務め、特にクラブの週報作りに十年以上頑張っている次第である。

国際ロータリー創立百周年の年にクラブの会長を務め、記念事業として「ロータリー杯グラウンドゴルフ大会」を開催して一般市民にロータリーの存在と国際奉仕の内容をアピールし多くの理解を得た。

又、平成二十二年には宮崎県南部分区ガバナー補佐となり、宮崎県IMを串間市で串間ロータリークラブがホストとなって開催し、各クラブの自慢話を発表してもらった。

私の職業名は、幼児教育専門職で職務内容は「幼児言語発達訓練指導」である。

教職員として昭和二十四年から四十年間の在職中、四十七年から平成元年に退職する迄の十七年間「ことばの教室」の担任として言語障害児童の指導に当たり、傍ら宮崎日日新聞社母子福祉事業団「ことばの教室」の専任指導員として幼児のことばの指導に携わり、退職後も引き続き指導し三十二年間務めた。

その後平成六年から十五年まで県の委託を受けて県南地域の「幼児の言語発達訓練事業」に従事した。そして平成十九年に串間市社会保健福祉センター開設に伴い、ことばの教室の開設を依頼されて現在まで十年間に亘って多くの幼児を指導して来た。

現在指導している幼児は七名。毎週水曜日の十時から十六時までの間に四十分単位で個人又は二人組で指導している。

発音異常児が多く、カ行音やサ行音のタ行音化が目立つ。他に吃音(どもり)、言語発達遅滞(精神発達の遅れによるものや、ダウン症、自閉的傾向、情緒不安定)の指導も行っている。

私は今八十九才で現役として務めている。後継者を探しているがなかなか見つからなくて困っている。

私が職業を通して考えている事は、「ノーマライゼーション」である。差別がなく平等に生きる社会を目指す実践活動である。

ロータリーの四つのテストは正にこの理念を象徴しているものと思う。