私の職業奉仕(出水RC・内野 智彦)

所属クラブ:

氏名:内野 智彦

 一九七七(昭和五二)年、学校を卒業して鹿児島市にある日本ガス株式会社に入社しました。以後四〇年ガス事業に携わっています。

 いつの頃から使われた言葉か分かりませんが、エネルギー施設、水供給施設、交通施設、情報施設など、生活に必須なインフラ設備をライフラインと呼ぶようになりました。

 このライフラインという言葉を特に意識するのは、大きな災害が起きた時です。

 私が入社してからも、幾つかの災害に身近な先輩・同僚・後輩が、その復旧のために派遣されました。このような派遣は、その地域や災害の状況により、復旧材料を車に積んで車で行く場合と、人だけが現地に入る場合があります。

 一九八二(昭和五七)年の長崎大水害の時は、私は工場でガスの製造をしていたため、あまり詳しい話は聞いていなかったのですが、現地での仕事も大変だったけど、車で帰る途中大雨で足止めをくって、帰るのにかなり時間がかかったという話を聞いた記憶があります。

また、一九九五(平成七)年の阪神・淡路大震災の折には、復旧場所の近くに宿泊するところがなく、遠くから時間をかけて現地に入ったことや、まだ余震が続く中復旧作業を行った話などを聞いています。

 災害の復旧は、このような厳しい環境の中で作業をするため、作業はかなりきついものですが、それをやっていく作業員の話の中に、このライフラインを復旧して一日でも早くガスの利用者に普段の生活をしてもらいたいという、使命と誇りのようなものを感じました。

 阪神・淡路大震災の時には、鹿児島ナンバーの当社の車を見て「遠くからわざわざ有難うございます」とよく言われたそうです。また、お客様が自分たちへ配給の食料も十分でない中、「寒い中、本当にありがとう」といって、カップラーメンを作ってくださったという話もありました。

 二〇一一(平成二三)年の東北地方太平洋沖地震では、復旧が終わって一軒一軒安全確認をして、ガスコンロを点火したところ、ほとんどの方が、何ともいえない笑顔で喜んでくださったとそうです。たぶんそのお客様の笑顔を見た社員も、自分の仕事の大切さを感じたのではないかと思います。また、帰りの飛行機の中で「この飛行機に、災害復旧に行かれた日本ガスの社員の方々が乗っていらっしゃいます」と機内放送していただいたということも聞いています。

 また、逆に一九九三(平成五)年の鹿児島8・6水害の時は、九州各地より復旧の応援をもらいました。

 その時、私は総務課にいたため、応援に来られた方々の宿泊の手配、応援者を含む全作業員及びスタッフの食事の手配等の後方支援の仕事をしていました。現場の第一線での仕事も大切ですが、裏方の仕事も非常に大切であるということをこの時感じました。現場責任者と私たちの間で、意見が合わず怒鳴り合う場面もありました。普段の場だったら、相手の立場を思いやる余裕もあったのでしょうが、その時は両者とも疲れがたまり、先の見通せない中で、気持ちのいらだちだけが先に出ていたのでしょう。

 ライフラインへの意識は、このような災害の時だけであってはならないことは、当然承知しています。

 入社してからずっと、ガス会社の社員として、ガスの安定供給とガスの製造・供給それにお客様先での保安の確保は、やかましく言われてきました。これらは、あって当然のことです。先ずこの基礎の上にすべてが成り立っていると思います。

 エネルギーの自由化で、ガス会社も電気を売る時代になりました。しかし、私たちの本職はガスです。私たちの基本理念に「三つの炎」というのがあります。これは「信頼の炎・幸せの炎・希望の炎」です。これまでのお客さまからの信頼の上に今日があり、そして、今の私たちの仕事や提供するガスで、お客様を幸せにし、更に将来の希望につながるというものです。そして、さらに「私たちが目指す四方満足」というものもあります。この四つの満足は、「顧客満足・従業員満足・会社満足・社会満足」です。私たちの仕事で、お客さまに満足をもたらし、お客様の満足する気持ちが社員を満足させ、そのことが会社と社会の満足につながるというものです。

 誰のために働くのか、それは、お客様の為でもあり、自分の為でもあり、会社の為でもあり、社会の為でもあります。

 この「三つの炎」と「四方満足」、それに「私たちが大切にする四つの顧客満足(接遇満足・技術満足・スピード満足・価格満足)」を全員が理解し、行動できることを目指しています。