私の職業奉仕(鹿児島城西RC・丸田 寿朗)

所属クラブ:

氏名:丸田 寿朗

この文章を作成するにあたって、先輩会員様からロータリーの奉仕は「社会奉仕」などあるが、「職業奉仕」が第一義であり、他のクラブのように奉仕のための各種イベント活動(一例としての清掃活動や献血活動)や、各種寄付活動に重きを置かないと教えていただいた。

ということは、端的に言えば、「「職業奉仕とは自らの職業を一生懸命行う」ということなのだろうか。

もちろん、4つのテストにあるように、その職業は1、真実かどうか 1、みんなに公平か1、好意と友情を深めるか1、みんなのためになるかどうか(言行はこれに照らしてから行うべし) に基づいたものなのだろうか、

4つのテストは(大恐慌のさなかに、公正な取引を測るために活用された)とのことであり、もともとはロータリーメンバーが苦境に陥っている友人の会社のために提唱し、その会社が立ち直ったという話が、ロータリーの4つのテスト基礎になっていることを考えるとき、「職業奉仕」の職業は4つのテストとの意味合いとは、少し違う気がする。

ただし世にいうブラック企業や、詐欺団体の職業でないことははっきりしている。

ところで私の悪い頭では、何をもって、これが「職業に奉仕する」なのか、「職業で奉仕する」ことなのか、あるいは「職業を奉仕する」ことなのか、いまいちよく分からないのである。、

但し、ちょうどいい機会でもあり、私の起業に至るまでの、素晴らしき上司たちの話を

著す機会に恵まれたと思い、自己満足でもあるが「職業奉仕」につながると思われるものをここに記す。それは私の起業するまで勤務した5つの会社は、現在は全て無くなっていることにも起因する。

私の大学時代は、学生運動の末期であったが休校もよくあった。2年、4年の期末試験は、デモで中止となり、各科目、論文だけでの卒業となった。経営学部である。

たぶん試験であれば卒業できなかったと思う。

バンド活動をやっていたので、成績は加山優三(可が山のようにあり、優は三つしかないギャグ)である。

大学時代は、家具の卸会社で、運転手助手のバイトをしていた。

大きなターミナルの奥の倉庫と、二階に山のように家具が積んであり、旧家具の丸井や旧ニチイ、イトーヨーカドーなどの家具コーナーで展示してあり、そこで販売された家具をトラックにきれいに沢山積めるように、数人の倉庫責任者(指示者)とともに二人、或いは数人で、トラックに積み込んでいった。私のバイトの仕事は、積み込みの仕事と

時には納品先まで運ぶ運転手助手のバイトであった。

様々な形の家具を、きれいに数多く、そしてできるだけ正(長)方形に詰めたとき、指示者は誇らしげであった。

そして最後に高速で落下したりしないように、縛ったロープにゆるみがないか、厳重にチェックしていた。高速であり大きな家具を落下させると重大事故につながりかねないからである。

 

トラックが次から次へと家具を積んで、ターミナルからでる姿は、波止場から、様々な荷物を積んで出港する貨物船を見るようで好きな光景であった。

トラックの運転手によると、指示者により、より遠方の販売店に行かされたり、より大量の荷物を積まされたりと、不平等があり、より公平な指示者が人気があった。

 

ところで私は大学3年時所属していたロックバンドで音楽のデモテープを作り、レコード会社に送ったりしていたが、どこも採用されず、自然解散のような状態となっていたので、

遅まきながら就職活動をしていた。

音楽が好きだったので、放送機器メーカーや、音響機器メーカーなどの就職試験を受けたが、どこも採用にならなかった。

少し落ち込んでいると、バイト先の家具卸会社から、まじめだからと(それしかなかったので)熱心に誘われ、内定をいただいていた。

さて、私は長男で男は一人であったため、父は鹿児島に帰れと、勤務先の自分の銀行に入れようと一生懸命だったが、私は、まだ都会にいたいということと、金融業より機械系がいいと考えていたので、父に返事ができないでいた(そのうち父に銀行はすこし待てと言われた)。

そんな中、親戚でもある完工高7億弱ほどの建設会社の社長に熱心に誘われ、その会社に入社した。

入社すると、最初は営業課所属となった。専務が営業の最終責任者をしており、又2億程度までの金額の工事の現場監督もこなす技術力を持ち、現場にも出ることがあった。そしてその部下の営業課長の下に配属となった。

しかし暫くして、そこの営業の仕事というと、官公庁への名刺配りと、役所に掲示してある入札予定物件の閲覧といったような仕事ばかりで、果たして自分はこれでいいのだろうかと悩むようになった。

それでも辞めようと思わなかったのは、ただただ専務の魅力、そして社長の魅力であった。専務のべらんめー口調と、どんなことにも動じない性格、そしてものすごく優しい心配り、素晴らしい技術力、囲碁が大好きで後年アマチュアの大会で優勝するほどだった。

営業の仕事にすごく役に立つといっていた。私にも勉強しろと「武宮正樹」の本をいただいたが、独学では難しかった。

自分だけでなく、他社の営業マンからも時々、お宅の専務は素晴らしいとか、私の師匠と思っているとか、あるいは「稀代の人たらし」いう評価を聞くにつけ、私は自分のことのように誇らしく思い、私にとってはミーハーのようにあこがれの存在となっていた。

40年弱昔の官公庁の土木建築というといわゆる談合の世界でる。取った、とられた、降りざるを得なくなった、してやられた、もぐられた、といったことが日常茶飯事であった。

しかし指名回数や、優良工事表彰、様々な企業評価に対して皆で指数を作り、自社は後回しにしてでも、皆で振り分けている姿は、変ないい方ではあるが、本当に業界としては公平で、どんな大きな会社の役職者も素直に従っていたようであった。

ただ自分はというと、大学を出たばかりの若造に、重要な会合を任されることは数年なく、ただの小間使いではいやだと社長に直訴し経理課に変えていただいた。

かたや社長はというと、経理上の様々なこと把握し、大変細かく指示をし、資材購入、備品購入の責任者でもあった。私に簿記の資格を取るように命じたので、夜間の学校に通い2級簿記まで取得した。そして経理はソロバンが使えないとということで(当時は今のような電卓はなかった)、テキストを買ってきた。帳簿に書く字も汚いといわれ、あこがれの営業課長の字を見本にし練習した。ただ毎晩10時程度まで勤務し、その後、自宅で勉学した。

 

「天使のように繊細で、悪魔のように大胆で」・・当時流行ったCMのキャッチコピーであったが、私はよく社長専務にあてはめていた。

 

社長は、自分を近江商人のようになろうとし、資材や備品、車両などの購入などに常に厳しい要求をしていた。人に嫌われることを恐れなかった。

ただし当時の建設業は手形払いが全盛だったが、すべて翌月末の小切手払いであった。

そしてあまりに厳しい要求だと、業者は専務に泣きつき、社長、専務の話し合いのもと支払われ一段落していた。

当時社長に、よく言われたのが中小企業に入社した以上は、自分で起業できるように、真剣に努力しなさいということであった。どんなことで起業できるか、世の中の会社をよく見ていなさいとも言われた。

毎日、経理帳簿と格闘する日が数年続いていたあと、いきなり社長が、私の父と話し合い、君を鹿児島に返すことになった。と突然言われた。私は27歳であった。

私は大変落ち込んで、辞める日まで経理帳簿を記入していたが、専務がよく私の机のそばに座り、馬鹿話や笑い話をしていった。

皆が催してくれた送別会では情けなくも大泣きをしてしまった。私は自分の小ささが身に染みた。こんなにも簡単に解雇できる自分が情けなかった。

 

ところがである、鹿児島に帰ろうと準備していた時、父から就職はダメになった。帰ってきて職を探しても、まだそちらにいてもいいということであった。

拍子抜けしたが、私は喜々として、学生時代、私がロックバンドをしていた時のギタリストとドラムが制御系のコンピュータソフトの社員20名ほどの会社を作っており、専務であるギタリストに(社長とは面識ない)、私は「俺は使えないか?」と聞いた。

「お前なら喜んで」と言われその会社に就職することになった。

また一から勉強である。

当初はベーシック言語の勉強と簡単なプログラミングの作成である。

一冊の本と使える古いパソコンがあり、まずは画面上に簡単なロケットの絵を飛ばすことであった。会社はフレックスタイム制であり、何時出社しても何時帰社しても8時間勤務すればよかったが、残業代は出なかった。

私は専務の仕事の営業の補助をしながら、毎日、毎日ベーシック言語を一日中学んだ。

そして3か月ほどして、簡単なベーシック言語でプログラムが組めるようになったら、営業サブとして最初は社長、専務、ドラムをやってたシステムプログラマーの鞄持ちであった。

私はこのプログラマーとは高校時代からの友人であったが、優しい性格の持ち主で、芸術家肌でもあった。高校時代から谷川俊太郎の詩集を持ち歩き、詩作もおこない、また勤務してから分かったことであるが、大変責任感が強かった。

あるとき、納期の大変短い仕事を請け負った。

そのプログラマーが主任担当となり、彼の補助をしたが、仕事ぶりは3日間で本当に3,4時間しか寝なかった。私はそんな人間を見たことがなかった。腕が悪いのではなく、

優秀で、その会社では社長を除き、3本の指に入るほどなのにである。

私は、同級生でありながら、彼を見損なっていたことに強く反省し、そして誇りに思った。

 

徹夜がざらに行う仕事であるため、時として、予想外な出来事に出くわす。

そしてそれを笑い話にしてみな憂さを晴らした。

キャッシュディスペンサーの仕事の時、機械から出てきた紙幣が切れ切れになっていたことから、キャッシュシュレッダーだと言って皆喜んだり、ある企業でコピー機の制御の仕事があり、それを皆初めて見たときは、面白半分に手をコピーしたり、顔を押し付けコピーしたり、ズボンを脱ぐものまで現れ、さすがに皆非難して辞めたりと、逸話に事欠かなかった。皆若かった。

今思うと皆一生懸命「職業に奉仕」していたと思う。

私は29歳までそこで働いたが、請負額が50万程度の仕事でも一人の人間が1か月ほど要し、利幅が薄いと感じていた。

そのうち請負金額の件で社長専務とぶつかり合うようになり、又優秀なプログラマーが納品先の企業に引き抜かれるようになり資金繰りが悪化し市中から借りるようになっていた。社長以外に専務が保証人である。

そして母が乳がんを患ったこともあり、退社することにした。父も鹿児島から出てきて、父、私、専務と飲みに出、話し合ったとき、専務は肩を落とした

帰り際は、父でさえもこれでよかったのかと口に出し、私もしばらく夢にみた。

帰鹿すると、母が「あなたが都会で幸せそうなら、私たちも強引に帰鹿させなかった」といった。地元のクレジット会社に勤務が決まっていた。

 

突然だが長くなりそうなので終わりたいと思う。全体の流れで「職業に奉仕する」ということを伝えられたらと思う。