私の職業奉仕(佐土原RC・藤堂 孝一)

所属クラブ:

氏名:藤堂 孝一

現在の私の職業は木材加工販売及び建設業を経営する会社の代表です、高校を卒業と同時に東京にある建設会社に就職しました。同窓3名で上京しました、同期が7名ほどいたと思います皆九州出身でした。実家が建築業をしていたせいもあり東京で修業して父の跡を継ぐつもりでいました13年間会社に勤め、現場を任せられていまして楽しく仕事をしていたのを思い出します。

 昭和59年の暮れ12月25日の朝実家から電話が入り、父が倒れて今病院にいる意識がなく2、3日が峠と言われ慌てて羽田空港から帰京しました、父は意識も戻り3カ月で退院しましたが半身麻痺の後遺症が残りました。

 私のいた会社の社長が実家に帰ってもすぐに仕事もできないだろうからと東京に残るよう要請されたのですが、それを断り会社を退社して実家に帰りました。右も左もわからずましてや木造建築が主体の実家の内容でしたので東京でのビル建築の現場監督のような仕事をしていたので、帰省して数年間は大変でしたが、弟が実家に残り仕事をしていたので何とか維持していけました。

 そのような中で商工会の理事の役を引き受け、先輩の人からロータリークラブに誘われましたが、当時37歳でしたので50歳になったら入りますと断っていましたが、何回か誘われ食事をしに行ってとうとう入会することになりました。当時佐土原RCは15名の会員で2730地区では最小のクラブだったと思います。ガバナーが指宿の今林ガバナーでした、地区大会に数名で参加して遠いところというのが実感でした。

 当時の佐土原RCの例会はホームクラブの出席者は8名から12名程度の参加の例会でしたが、他のクラブ特に宮崎北クラブや西都クラブからのメークが多くて寂しいクラブを大いに盛り上げていただいたのが良い思い出です。

5年目にクラブ会長を引き受け非常に緊張して何を話したのか覚えておりませんが宮崎中部分区の会長幹事会にも慣れてきて当時は2次会が決まっていて様な気がします。会員数も多いときは34名まで増えたこともありますが現在の26名を増減しているのが現状です。

ロータリーに入会してロータリアンには悪い人がいないという先入観で見ていましたが、「 真実かどうか。 」の4つのテストを自問自答しております。自分の仕事への考え方で一番の影響は東京の建設会社の社長の考え方が一番影響を受けました。当時の会社は大手建設会社のグループ会社で社長も兼務されていて、社長の顔を見るのは4月1日の入社式だけでした。そのような会社でしたので何年も務めるつもりもなくいました。3年目の時に当時親会社の横浜支店長と工事部長が新しく着任されました。それからが会社の内容が一変したのです、毎日社長と部長が各工事現場を視察して回り問題がある場合、例えば施工方法が悪い場合は会社に所長クラス次席クラスがすぐ集められ徹底して問題部分をどうすればよいか教えられました。問題が生じた現場所長は将来の展望はありません何年もしないうちに退社していきました。そうして徹底して問題意識をもって現場に当たるようになり自分たち若い社員を教育してもらいました。25歳ぐらいで3億円クラスの工事現場を任せられるようになり充実していた時に私の父が悪くなり会社を退社した次第です。

又、会社を経営するうえで社長は自分で判断しなくてはならないなど厳しいときの心構えも退社の時に教えてもらいました今の自分の基礎を鍛えられたような気がします。今の仕事に関しては全てがお客の立場で仕事に対応しているかどうか常に従業員とも話をしていて、トラブルなどの発生時には陣頭指揮で当たっているところです。この業界の将来の展望としては、ハード面で設備投資が必要になってくるところがありなかなか厳しいところもあります。付加価値の高い業界ではありますがその様な面で大変なところも持ち合わせています。 特に、今回ガバナー補佐を経験して大重ガバナーと中部分区9クラブを訪問して回り、ガバナーから職業奉仕の色々な話、資料などを頂き大変充実した体験をさせていただき一生の宝物としてロータリーを楽しんでいければと思います。